コンピュータなしのリテラシー

星新一さんが亡くなった。星さんは晩熟の中学生だった私を、児童書から一般の書物への橋渡しをしてくれた人だった。当時、無理言って買ってもらった「世界SF全集」だったが、初回配本のハックスリーとオーウェルは中学一年生には難しすぎた。だが星さんの巻は繰り返し読んだ。言語での成長はそのまま思考力の成長だったと思う。1年前に読んで分からなかったブルーバックスが理解できるようになったときは本当に嬉しかったことを覚えている。

言語は記録や伝達の手段のみではなく、考える為の道具である。例えば、目が見えず、耳が聞こえず、口もきけなかったヘレン・ケラーは、後年、自伝を書くのだが、言葉を習う前の記述はまったくない。言語のない世界では通常の意味での記憶や思考すら存在しなかったのか?

そういう意味では世の中で一番、頭を使う職業は、言語を武器にして思考実験で論理を積み重ねていく哲学者ではないかと思う。バートランド・ラッセルは哲学者で数学者でもあったが、哲学から数学に転向した理由を「年を取って頭が悪くなったから」と言っていた。

言語には新たに概念が追加され進化していくが、ある概念が追加されると、それを前提として、いろいろな現象が起こる。「ストーカー」などは、その好例である。「ストーカー」という名前がつく前から、このような行動をする人はいたはずだが、名前が与えられると一躍クローズアップされ、「ストーカー」対策の法律まで作られるということになる。

さて自然言語からプログラミング言語に目を転ずると、プログラミング言語もコーディングの手段のみでなく、アルゴリズムを考える為の道具である。プログラマがプログラミング言語に精通しているのは当然だが、70年代に「構造化プログラミング」で一世を風靡したダイクストラは「プログラマたるもの、自国語には精通していなければならない。」とのたもうて、当時、大学生だった私に国文法の本を買わせることに成功した。

私の経験では、プログラマと呼ばれる人たちは英語が不得意の場合が多い。(彼らが書いた英文を読んで、頭に血が上ったことがある)中には日本語まで苦手な人がいる。

言語は無理してでも使わないと習得できない。コンピュータ・リテラシーといわれる昨今、コンピュータのつかないリテラシーもコンピュータを使う上で重要であると最近つくづく感ずる。ダイクストラは正しかった。