ゲーデル・エッシャー・ペナルティメート
| 「バスチアンは頭がこんがらがった。それこそ、今読んでいる本だ! かれはもう一度、本を眺めてみた。そうだ、まちがいなくこの本だ、今自分の手の中にあるこの本のことだ。けれども、どうしてこの本がこの本自身の中に出てくるなんてことができたのだろう?」(エンデ 「はてしない物語」) エンデは不器用な作家だったが、この「はてしない物語」は文句なく感動的だ。が、今回の話題は自己言及についてである。もう一つ最近の小説から挙げてみよう。 「致死性ソフトウエア」(新潮文庫)に登場するソフトウエア、ペナルティメートはインターネット上に分散し、増殖する人工知能である。元々、知的なキャッシュ・ソフトウエアとして設計され、ユーザの操作やアプリケーション処理を最適化することが目的だった、そのうちウイルスと結びついてネットワークに広がり、また自分自身の最適化を繰り返すことで進化していく。 バスチアンが読んでいる本の中に、その本自身が出てきたり、ペナルティメートが自分自身を最適化するという一種の自己言及は、数学やコンピュータ科学では、古くから理論発展の原動力になってきたし、遊びの要素としても、エッシャーの絵画等、枚挙にいとまがない。 計算機科学の分野では、例えばC言語のコンパイラをC言語自身で記述する。(これはカルチャーショックでしたよ)あるいは一昔前のGPS(汎用問題解決プログラム)の入力となる形に問題を形式化する操作をGPS自身にやらせるアイディア。決定問題の分野では、任意のプログラムが停止するかどうかを判定するプログラムは存在しないことも、自己言及の応用で証明できる。 数学の分野では、形式主義に至るきっかけとなったラッセルのパラドクスも自己言及に関係する。(自分自身を要素として含まない集合の集合を定義すると、その集合自身は自分を含むのか?)このパラドックスを克服するために発達した形式主義の限界をゲーデルが証明することになるのだが、そのゲーデルの不完全性定理(人工知能の理論的限界だという人もあり、それに反論をする人もある。SF小説の味付けに使われることもあり。私が読んだのはゼラズニーの小説だった。)も、中心となるアイディアは、ゲーデル・ナンバリングというトリックを使って、形式体系が自分自身を記述対象とすることを可能としたところにある。 物理の世界では、クォークの存在が証明される前に、G.チュー等がブートストラップ理論を提唱していた。これは究極の素粒子は存在せず、互いが互いを構成しあっているという!(いやあ、これには興奮しましたねえ。だからクォークの存在が確認されたときには、がっかりしました。)これも自己言及と言えなくもない。 ピュリツァー賞を受けた「ゲーデル・エッシャー・バッハ」のホフスタッターも自己言及に取り付かれている。「ゲーデル・・・」が、そもそもそういう話題でいっぱいなのだが、デネットとの共著「マインズ・アイ(Mind's I)」で、人の脳のソフトウエアはなぜ無限ループにならないのかという話題がある。(もっとも私は、たまになりますけどね)たぶん自分をモニタしている自分がいることが理由ではないのか? と考えると、そもそも「自分」とはなんだろうということになる。(それがマインズ・アイの意味、つまり心の中の私である。) 話題は自己言及から、自意識とは、という問題に移るが、今回はこの辺で・・・。 |